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最高裁判所第三小法廷 平成8年(あ)1308号 決定

被告人 Y(昭和30年○月○日生)

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人Eほか二名の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は本件とは事案を異にして適切でなく、その余は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。

なお、中学校の教師である被告人が、その立場を利用して、児童である女子生徒に対し、性具の電動バイブレーターを示し、その使用方法を説明した上、自慰行為をするよう勧め、あるいは、これに使用するであろうことを承知しながらバイブレーターを手渡し、よって、児童をして、被告人も入っている同じこたつの中に下半身を入れた状態で、あるいは、被告人も入っている同じベット上の布団の中で、バイブレーターを使用して自慰行為をするに至らせたという各行為について、いずれも児童福祉法34条1項6号にいう「児童に淫行をさせる行為」に当たるとした原判断は正当である。

よって、刑訴法414条、386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 金谷利廣 裁判官 園部逸夫 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信 裁判官 元原利文)

参考 上告趣意書

平成八年(あ)第1308号児童福祉法違反上告事件

上告趣意書

被告人 Y

右の者に対する頭書上告の上告の趣意は以下のとおりである。

平成九年四月二日

右弁護人 E

同 F

同 G

最高裁判所第三小法廷御中

第一総論

一 本件事件の関係で弁護人が先ず以て主張したいことは、控訴審の判決(以下原判決という)は、当罰性を優先させる余り、児童福祉法が本来予定していなかった解釈を無理矢理引き出し、刑事法の大原則である罪刑法定主義の鉄則を踏み躙る結果となっているということである。

要するに、本来は青少年保護条例の適用が問題となるべき事案において、長野県では同条例が存在しないことから、かかる立法の不備を法の不当な拡張解釈によって補おうとする態度に出たものである。

いかに被告人の行為が道義的に非難されようとも、法律が刑事罰を予定していない事態に対し、法律の解釈をねじ曲げてまで刑罰を科することが許されないことは、治者による罪刑の専断が支配していた暗黒の時代から、自由主義、人道主義に基づく罪刑法定主義の理念を勝ち取ってきた刑事裁判史に鑑みても自明の理である。

二 そもそも児童福祉法34条1項6号(以下「本号」という)は、立法者の意思によれば、「淫行」とは性交だけを指し、淫行「させる」とは第三者に対して淫行させる行為に限定されていたにも係わらず(「改訂児童福祉法の解釈・厚生省児童家庭局編」時事通信社235頁参照)、最高裁判例により「淫行」は性交類似行為にまで拡張され、今また本件控訴審によって、直接の相手方であっても(しかも第三者が全く登場しない、被告人と児童との相対のケースであっても)本号の正犯として処罰すると解釈されるに至っている。

法の規定はそうでないにも係わらず、解釈は遥かに法を越え、処罰範囲が限りなく拡張されていくことに対しては多大なる危惧感を抱かざるを得ない。性交類似行為への拡張はある意味でやむを得なかったとしても、法と条例とが明確に適用領域を区別していると考えられる淫行させる「相手方」の問題に関してまで無秩序に法の適用を拡張させ、法と条例とが相互に予定している適用範囲を徒らに混沌とさせてしまうことは決して許されるべきではないだろう。

三 刑事法の拡張解釈も全く否定される訳ではないが、そこには自ずから文理と立法者意思による限界がある。刑事法は司法府の恣意から個人の権利を保障するために制定されており(「刑法は犯人のマグナカルタである」)、そうした考慮の下に罪刑法定主義が宣言されたことを忘れてはならない。

以上の視点を前提に、上告理由について具体的に主張することにしたい。

第二憲法違反

一 原判決の本号の解釈は、刑罰法規の明確性や罪刑の均衡を定めた憲法31条、平等原則を定めた同14条に明らかに違反するものであって、破棄を免れない。

1 「淫行」の解釈について

原判決は、「淫行」には性交類似行為も含まれるとした上で、「仮に相手方が自らの手でバイブレーターを児童の性器に挿入しない場合であっても、バイブレーターを調達して児童に交付した上、自己の面前において性器に挿入させる行為」も性交類似行為に当たるとし、結局器具を用いた自慰行為をも「淫行」に当たると解釈して本号を本件に適用している。そして、その理由とするところは、専ら児童の心身に与える有害性という児童福祉法や本号の趣旨の理解に拠っている。

しかしながら、原判決の右解釈は、

〈1〉 「淫行」とは一般に「淫らな性的行為」を指すものであるところ、自慰行為までもこれに含めて解釈することは文理上も無理があり「淫行」の定義を不明確にするものであること。

〈2〉 自慰行為が、仮にそれが器具を用いたものであったとしても、児童の心身に有害な影響を与えると決め付けることは現代社会における性常識に反しており、そのことを理由にこれを「淫行」に含めて解釈することは、児童の性的自由の領域に国家が不当・過剰に介入するのを許すことになり、ひいては法が本来予定していた範囲を遥かに越え、処罰の範囲を不当に拡大させるものであること。

〈3〉 本号違反の行為に対して格段に重い法定刑が定められていることからすると、「淫行」とは児童の心身に与える有害性が著しく高いものでなければならないと考えるべきであるが、自慰行為まで「淫行」に含めることは罪刑の均衡を著しく失する結果になるものであること。

などの批判を免れない。

本号のような規範的概念を用いて定められた犯罪構成要件は、明確性や罪刑の均衡の観点から合憲的に限定解釈しなければならないところ、原判決が前記のような解釈に基づいて本号を本件に適用したことは明らかに憲法31条に違反するものである。

2 淫行をさせた者と淫行の相手方との同一性について

原判決は右の点につき「行為者が児童をして第三者と淫行させる行為のみならず、行為者が児童をして行為者自身と淫行させる行為をも含むものと解するのが相当である。」との解釈を示した。

しかし、右解釈は「淫行させる行為」の文理に明らかに反し、本号による処罰範囲の外縁を著しく曖昧にするものであり、このような解釈のもとに本号を本件に適用したことは、やはり憲法31条に明らかに違反するものである。

また、右のような解釈は、現在各自治体が制定しているいわゆる「青少年保護条例」の淫行処罰規定を全く無意味なものにしてしまう。本来、児童福祉法は児童をして第三者と淫行させた者を処罰対象とし、青少年保護条例は児童の淫行の相手方になった者を処罰対象としていたはずである。実際にも、別紙Iのような本件類似の事案では青少年保護条例が適用されているし、別紙IIIのような事例では児童の売春行為等のあっ旋をした者には児童福祉法が、売春行為の相手方になった者には青少年保護条例が適用されており、その適用対象が明確に区別されている。このような法の運用を前提とすれば、もし仮に本件行為地である長野県が青少年保護条例に基づく淫行処罰規定を制定していたならば、被告人にはその条例が適用されていたはずである。ところが同県にはそのような条例がないことから、本号につき淫行させた者と淫行の相手方になった者が同一であってもよいとの解釈を取った上で、被告人には児童福祉法が適用された。しかし児童福祉法と青少年保護条例の間には周知のとおり淫行罪の法定刑に著しい差がある。同種の事実関係につき、たまたま長野県で起きた本件について格段に重い罰則が適用されるということは、憲法14条の定める平等原則に明らかに違反するものである。

3 淫行を「させる行為」の解釈について

原判決は右の解釈につき、従来の判例の一般論を踏まえた上で、「行為者自身が淫行の相手方となる場合について同号違反の罪が成立するためには、淫行をする行為に包摂される程度を超え、児童に対し、事実上の影響力を及ぼして淫行するように働きかけ、その結果児童をして淫行をするに至らせることが必要であるものと解される。」との判断を示している。

しかし、淫行に至る過程においては行為者からの何らかの働きかけ皆無ということは通常考えられず、それがどの程度の行為に至れば「淫行をする行為に包摂される程度」を超えるのかが、右解釈では全く不明確であると言わざるを得ない。

また、本号が非常に重い法定刑を定めていることに鑑みれば、この淫行を「させる行為」についても罪刑の均衡の見地から合理的に限定解釈すべきであり、具体的には行為者の働きかけがなければ淫行をし又はこれを継続することが不可能ないし著しく困難であったり、行為者が働きかけるにあたってわいせつや利得といった不当な目的を持っていた場合に限られると解すべきである。

原判決の前記解釈は構成要件を著しく不明確にするものである上、罪刑の均衡を失するものでもあり、このような解釈のもとに本号を本件に適用したことは憲法31条に明らかに違反する。

二 また、原判決は事実関係につき第一審の事実認定よりも被告人に不利益な認定を行っており、これは刑事手続における適正手続と不利益変更の禁止を規定した憲法31条に明らかに違反しており、この点でも破棄を免れない。

1 刑事訴訟法は、その402条において被告人控訴の事件については原判決より重い刑を言い渡すことができないと定めているが、事実認定の不利益変更については特別の規定を置いていない。

しかし、刑事手続におけるデュー・プロセスの観点からは、被告人控訴の事件については事実認定についても被告人に不利益な変更をしてはならないと解すべきであり、これは適正手続を定めた憲法31条の要請であると考えるべきである。なぜなら、右の場合に事実認定の不利益変更を許すことは、被告人に対して完全な不意打ちになるのであって防御権を著しく侵害するものだからである。

特に、本件の場合、後述するとおり、被告人のみが控訴した事案であって、事実認定については第一審判決の認定の一部だけを争っており、控訴趣意の主要な部分が法令の解釈適用の誤りを主張するものである場合において、控訴審で争点となっていない事実関係について第一審の認定よりも被告人に不利益に認定するようなことが許され、かつそれが法令の解釈適用の問題に影響を与えている場合には、被告人の防御権が著しく侵害されることは明らかである。

2 原判決は、「原判決(第一審判決)が認めなかった所論指摘の前記各事実は被告人にとって不利益な事実であるから、被告人のみが控訴を申し立てている本件の訴訟経過にかんがみ、以下においては右各事実を捨象して検討を進めることとする。」として(八頁)、あたかも事実認定の不利益変更を法令の解釈適用の問題について反映させないとするような説示を行っている。

しかし、以下に述べるとおり、原判決の法令の解釈適用に関する判断は、明らかに第一審より被告人に不利益に認定した事実関係を前提としていると言わざるを得ない。

3 まず原判決は「原判示第1につき、A子が自慰行為をしている最中に被告人がバイブレーターのスイッチを操作したとの事実を認めることは困難であり、原判示第2につき、B子がバイブレーターを用いての自慰行為を開始する前に被告人が同女に対し自慰行為をするよう勧めた事実や同女が自慰行為をしている最中に被告人が自らバイブレーターを同女の性器に挿入したとの事実を認めることはできない旨説示しているが、これらの点に関しても被害児童の各証言の信用性に問題はないと認められ、右説示は誤りである」と認定する(六ないし七頁)一方で、「淫行」概念の解釈に際しては右認定を前提としないかのような説示をしている(一一ないし一三頁)。

しかし、原判決の説示を子細に検討してみると、〈1〉被告人の行為を「自らの面前において児童をしてこれ(バイブレーター)を性器に挿入させる行為」と評価していること、〈2〉被告人自身が「淫行」の相手方であると判断していること、〈3〉被告人の行為を「児童の健全育成を著しく阻害するものであることは明らかである。」と決め付けていること等からして、被告人が前記のような行為にまで及んだとの認定を踏まえたうえで、本号を本件事実関係に適用していることは明白である。

4 次に、淫行を「させる行為」の解釈に際して、第一審判決は「中学生を保護育成すべき職にある」と認定しているのに止まっているのに対して、原判決は「中学校の教師という生徒への強い立場を利用し」たとしてより不利益に認定しており、このような不当な地位利用を前提として、被告人の行為が「させる行為」に該当するとの判断をしている。

5 また、第一審判決が「本件各行為は自己の性欲を満たし、あるいはわいせつ目的に出たものとまでは認められない」とした上で、「生徒との意思疎通を図るための手段であったとの被告人の弁解もそれなりに理解できないものではない」としているのに対して、原判決は「性交や強制わいせつ行為に及ぶことを企図したものではないという限度では相当であるが、本件犯行は、その内容、そこに至る経緯及び周辺の事情に照らし、思春期の女子中学生に対する低俗な性的興味を動機とするものと認められ、教育の名に値するようなものでないことは明白である」と断定している。

そして「淫行」や「させる行為」の解釈適用にあたって、被告人の行為を、児童に対する有害性が大きい行為であるとか、社会的に強く非難されるべき当罰性の高い行為であると決め付けて本号の構成要件該当性を肯定している。

6 以上のように、原判決は、本件において重要であって、しかし控訴審において全く争点となっていない事実関係につき、第一審の事実認定を大幅にしかも被告人に不利益に変更しており、かつその認定を本号の解釈適用の前提としているのであって、このような判断は被告人にとって全くの不意打ちであり防御権の侵害であることは明らかであるから、憲法31条に違反するものである。

第三判例違反

一 原判決は、淫行の相手方と淫行させる行為をした者との同一性(本号の主体)について、単に児童と淫行したに過ぎない者は本号に該当しないが、「淫行させる」行為に出た場合はその者は右淫行の直接の相手方となっても本号に該当すると判示する。

ここで「淫行させる」とは、淫行する行為に包摂される程度を越え児童に対し事実上の影響力を及ぼして淫行するように働きかけ、その結果児童をして淫行をするに至らせるものをいうと判示しているが、その真意は(本件事案を処罰していることからしても)、淫行を勧誘した上自らその相手方になる場合は全て本号により処罰する趣旨であると解されるところである(少女の方から勧誘して淫行に至った場合のみ本号では不可罰とする趣旨であると思われる)。

しかしながら、左に論じるとおり、右控訴審の判断は従前の判例とその解釈を異にするものであるから、当然に破棄されなければならない。

二 右論点に関しては、最高裁判所の判断はなされていない。

控訴裁判所(高等裁判所)の判例について鑑みると、東京高裁昭和50年3月10日判決は、「児童福祉法第34条1項6号にいう『児童に淫行をさせる行為』には、自己が直接児童と淫行した場合は包含されないと解するのを相当とするが、本件のように、他人を教唆し児童をして自己を相手方として淫行させる場合は、児童をして第三者と淫行させる場合と区別すべき合理的理由がなく、また被教唆者に対してのみ児童に淫行させた責任を問うべきものではなくして、教唆者も同法条違反の罪の教唆犯としての責任を免れることができないものと解すべきである」と判示している(家裁月報7巻12号76頁)。

三 そこで、本論点の解釈について、先の憲法違反の項でも触れたところであるが、本項において更に詳細に論述することにしたい。

通常の関与形態において「淫行する」場合は法で不処罰であるのに対し、他方通常の関与形態を外れて「淫行させる」場合には処罰するというのが、あらゆる判例の一致した態度である。それでは、「淫行する」と「淫行させる」とはどのように区別されるべきものであろうか。

淫行を勧誘し自らその相手方となった場合も本号に該当する(「淫行させる」に該たる)とする考え方(いわゆる積極説―本件原判決、あるいは小泉祐吉「注解特別刑法7」青林書院38、39頁、本田守弘・研修579号13頁等)は、本号が児童の健全なる育成を直接の保護法益としている以上、第三者が相手方となろうが自ら相手方となろうが法益の侵害状況は同じであるからこれを区別することに合理性はない、ということを主たる根拠とする。しかしながら、このような考え方を貫徹するならば、「淫行する」場合であっても同じく本号で処罰されなければおかしいはずである。けだし、児童から勧誘があって淫行に至ったとしても、その淫行行為自体によってすでに児童の健全なる育成という利益は当然に侵害されているからである。

結局、法が特に「淫行させる」場合だけを処罰し、しかも10年以下の懲役という重い刑を予定したのは、淫行そのものに伴う児童の健全なる育成の阻害防止といったことだけを目的に置いたのではなく、淫行にさらにプラスされた法益の侵害を防止しようとしたものと解さざるを得ないのである。淫行以上の法益の侵害の意義が何かと言えば、法が児童の虐待防止ということから制定されてきた経過に鑑みるならば、児童の人格を踏み躙る形態にて淫行に至らしめたり、児童の性が風俗営業とか商品化の対象に至ったり、児童の健全育成を完全に崩壊させるような行為であったりすることが前提となっているものと思われる。児童の直接の相手方となる場合には、(仮に大人のほうから誘引があったとしても)そこには緊密なる人間関係があり、恋愛感情や結婚の意思に代表される何らかの信頼関係が存在することが稀ではないのに対し、第三者に淫行させる場合には、そうした人間関係はほとんどなく、金銭が絡んだり、商品化の対象とされたり、あるいは欲望の刷毛口だけの性関係、児童の人格を無視した何らかの取引を前提とした性関係、すなわち「汚れた性関係」が存在するだけである。そうした堝に児童を転落させていくことは、単に児童が淫行という行為によって傷付くには及びもつかぬ程、より大きな禍根を児童の心と身体に残すことになるのである。

法はこうした行為に対し重罰をもって臨んでいると言わざるを得ない。すなわち、定型的、画一的に、第三者に対して淫行させた場合を「淫行させる」と評価して処遇する、他方、直接の相手方となった場合は「淫行する」に過ぎないから処罰しないという区別を法政策上したのである。これによって、法と条例の処罰範囲も明確に区別されることになったのである(最大判昭和60年10月23日判時1170号3頁において、長島敦裁判官は補足意見で、「児童福祉法の規定が児童に対し事実上の影響力を及ぼし、児童をして第三者と性交又は性交類似行為を行わせ又は児童が第三者とこのような性行為をするのを助長し促進する行為を対象とするのに対し、〈条例が〉自ら青少年を相手方として行うこの種性行為を対象とする点で、犯罪の態様、したがってその社会的意義を著しく異にする。すなわち、前者にあっては、そのような性的に未熟な少女を第三者の性的行為の対象にするという行為自体は、たとえ行為者が営利の目的に出でず、また、当該少女がもともとそれに同意していたとしても、明らかに当該少女の福祉を害し、その健全な育成を著しく阻害するものであって、社会通念上その当罰性を肯定するに十分の根拠があり、また、その少女の性行為そのものも、客観的にみて、淫らな性行為として淫行の概念に当たると評価することができる。これに反し、後者にあっては、自ら青少年を相手に性行為に出る場合であるから、その性行為に至る経緯とその背景事情、性行為に出た動機・意図、両者の間の心理的精神的緊密性、将来の結婚へ向かっての意図とその実現の可能性など、個々の事件ごとに異なる各般の要素が含まれており、前者のようにその典型的な事例につき犯罪社会学的な一つの犯罪定型を想定することさえ困難である。」と述べているのも同旨の主張である)。

もっとも、第三者が児童に淫行させたところ、これに共犯(教唆犯、従犯)として関与し、しかも同淫行の相手方になった場合は、相手方であること一事をもって不処罰とする必要はない。この場合は、あくまでも第三者の行為は児童福祉法に違反するものであるから、これに関与する以上これを処罰すべきは当然である。直接の相手方としての正犯性は否定されるとしても、共犯の処罰根拠に従い、第三者たる正犯者を堕落させ罪責と刑責に陥れていれば処罰を免れることはできないのである。

こうした法理論を前提に、前記東京高裁の判決(昭和50年3月10日)はなされたものと思科される。

四 ところでその後、東京高判昭和58年9月22日は、「児童福祉法の右条文が、児童に対する法益侵害行為のうち、『児童に淫行させる行為』のみを処罰し、これに必然的な、あるいは通常伴う関与行為について処罰規定をおいていないことは、これらの関与行為自体を処罰しないことはもとより、これらの関与行為にとどまるかぎり、『児童に淫行させる行為』の教唆犯あるいは幇助犯としても処罰しない趣旨とみることができる。(中略)しかしながら、児童の淫行の相手方は、右のようにその関与行為自体によっては処罰されないけれども、その者が、すすんで『児童に淫行をさせる行為』をした者であるときは、児童に対する別個の態様の法益侵害行為として、児童福祉法の前記罰則によって処罰されることは当然である。けだし、『児童に淫行させる行為』とは、児童に対し、事実上の影響力を及ぼして、児童の淫行を助長、促進する行為をいうものと解されるところ、児童に対し、このような淫行をさせる行為をした者が、たまたま自らがその淫行の相手方となった場合には、これを処罰しないとする合理的理由は全く存在しないからである。このことは、『児童に淫行をさせる行為』という文言自体に徴しても明らかであって、右の文言は児童の淫行の相手方が第三者であるか否かを問わない極旨に解されるのである。(中略)右弁護士法違反の場合は、依頼者は自らの事件に関し法律事務取扱いをすることは何ら罰せられないのに対し、自ら淫行の相手方となる者であっても、児童に淫行させる行為の正犯資格を付与するのに何ら障害は存しないのである。結局、児童の淫行の相手方となる者が、通常の関与行為を越えて、犯罪構成要件として規定された『児童に淫行をさせる行為』をした場合において、児童福祉法34条1項6号、60条1項によって処罰されることは当然の事理といわなければならない。本件において、被告人は、他人に『児童に淫行をさせる行為』を教唆し、自ら児童の淫行の相手方となったのであるが、すでに説明したように被告人の右犯行につき正犯資格を有するものであるから、教唆犯の成立することは当然のことである。被告人が第三者と共謀の上、他人に『児童に淫行させる行為』を教唆し、右共謀者が淫行の相手方となった場合においても同様である。」と判示するに至った。

右判例について、原判決時の検察官は積極説に転じたものと評価している。しかしながら、右判例における具体的事案は、被告人が第三者を教唆し、その第三者をして児童に淫行をさせ、淫行の相手方を被告人が務めたというものであるから、被告人が児童を誘引し、淫行をさせて直接の相手方となったケースとは全く異なるのである。右判例において、後者のような場合まで法を適用とするということは一言も述べられていない。

確かに右判例は、児童の直接の相手方をした者も正犯資格を有すると明言しているが、それは広く(淫行させる行為を行う第三者が全く登場しない)相手方と児童の相対の関係においてまで正犯が成立することを認める趣旨ではなく、通常の関与行為を越える場合すなわち、第三者に働きかけて第三者をして児童に淫行をさせたところ(淫行の相手方は第三者に働きかけた者)、たまたまその第三者も児童であったとかあるいは畏怖し意思を抑圧されていたため、被告人に淫行罪の間接正犯が成立する可能性があるような場合、あるいは第三者と共謀の上、第三者をして児童に淫行させ実行行為をなさしめ、偶々かかる児童の相手方となったように、被告人に淫行罪の共謀共同正犯が成立する可能性があるような場合、その限度において例外的に正犯性を肯定したに過ぎないと解せられるのである。前述の前半の判示よりするならば、相手方と児童との関係が相対である以上(第三者が登場しない以上)、いかに相手方からの働きがあったとしても法は処罰を予定していない、と当判例は解釈しているとしか捉えられない。

こうして見てくると、右判例も昭和50年の判例の実質的な理由付けをしたに過ぎないのであって、積極説に転じた訳ではないものと思科される。

五 ところが、本件控訴審は、前述したとおり、従前の判例の解釈を無視して、被告人と児童との相対の関係(しかも第三者は全く登場しない)においてまで、法34条1項6号の適用を肯定するに至った。

これは明らかに従前の判例法理を踏み外すものであって、判例違反の謗を免れないから、当然に破棄されなければならない。

第四職権破棄事由

一 法令違反

すでに憲法違反、判例違反の項で主張したとおり、控訴審は法34条1項6号における「淫行」および「淫行させる」の解釈、また同号の主体の解釈(淫行の相手方と淫行させる行為をした者との同一性の解釈)を誤っているものであって、憲法違反、判例違反の前提として法令に違反していることは明らかであり、かつ判決に影響を及ぼすものであるから、破棄を免れない。

二 重大なる事実誤認

1 原判決は、各児童(B子及びA子)がバイブレーターを自己の性器に挿入して自慰行為をしたとの事実について、各児童の供述を全面的に信用してこれを肯定するものである。

原判決が各児童の供述の信用性を肯定する根拠は、「詳細かつ具体的で迫真性に富んでいる。反対尋問においても揺らいでいない、一定の事実を区別して証言している。心情を率直に述べている。実際に存在しなかった事実を捏造してまで虚偽の証言をする動機も認められない。」というものである。しかしながら、右信用性の認定は極めて抽象的一般的な事実の指摘の域を出でず、各児童らの供述の具体的な矛盾、不合理性を完全に無視するものであって、極めて乱暴な認定であると言わざるを得ない。しかも、「A子とCの証言は基本的に符合している」、「B子とDの証言は基本的に符合している」との指摘に至っては、各両者の証言の食い違いを完全に無視した誤った認定である(控訴趣意書20頁以下参照)。

かかる証拠採用を前提とした右事実の認定は誤っていると言わざるを得ない。

バイブレーターを性器に挿入したという事実の認定は重大なる事実誤認であって、そうだとすると本件児童らの行為は淫行に該たるとは言えず、判決に影響を及ぼすことは明白であるから破棄を免れない。

2 また原判決は、被告人は中学校の教師という生徒への強い立場を利用して、その生徒である女子中学生にバイブレーターを与えて淫行を勧め、同児をして淫行をするに至らせ(原判示第1)、また、同じく中学校の教師という生徒への強い立場を利用して、その生徒である女子中学生にバイブレーターを入手した上その使用方法を説明して手渡し、同児をして淫行をするに至らせた(原判示第2)ものであって、まさに児童に対し事実上の影響力を及ぼして児童が淫行することに原因を与えあるいはこれを助長する行為をし、それが淫行をする行為に包摂される程度を越えていたことが認められるから、右各行為が児童福祉法34条1項6号にいう淫行を「させる行為」に該当することは明らかである、と判示する。

右判示は、被告人が教師であったという地位とそれを利用した点を殊更強調するが、児童のほうで積極的に被告人の家へ遊びに来たのであり、更にバイブレーターを見たい、ホテルへ行ってみたいと言い出したのはいずれも児童らであり、自慰行為も児童のほうで主体的に開始したものであって、被告人が教師としての地位を利用して淫行させたという事実は一切ない。被告人が、生徒の成績や進学への影響力をもって児童らに自慰行為をさせた訳では全くないし、児童らもそうしたことに対する気遺いをもって自ら自慰行為に及んだ訳ではない。従って、この点においても控訴審の判断は誤っていると言わざるを得ない。

原判決は、被告人の児童らに対する影響力を示す具体的事案として、「(A子は)被告人がいつもより怖くて逆らい難いと感じた」とか「(B子らに対し)アダルトビデオを見せ、さらにセックスの話をするなどして、その性的好奇心をあおった」などとも認定をしているが、これらも事実誤認である。

こうして見ると、被告人は児童らに対し事実上の影響力を及ぼしたとは言えないので、右事実誤認が判決に影響を与えることは明白であるから当然に破棄されなければならない。

三 量刑の著しい不当性

原判決は、被告人の各行為の目的が思春期の女子中学生に対する低俗な性的興味を動機とするものであるとし、捜査段階、原審および当審を通じ事実関係について供述するところをみると、自ら犯した行為について事実を反省しているのかどうか甚だ疑わしいとして、弁護人の量刑不当の主張を一蹴している。

しかしながら右判断は、少なくとも一審でさえ認めていた、被告人の問題ある児童に対する教育への情熱、意思疎通行為の側面を完全に否定するものであり、また被告人の心情を全く無視したものであって(殊に動機の点は一審判決を曲解しており、明らかに誤った判断をするものである)、被告人に対する悪意を前提とした情緒的判断と言わざるを得ない。被告人は決して道義的責任を否定している訳ではなく、ただ法の解釈と刑事責任の有無について裁判所の判断を求めているに過ぎないのである。

本件より情状悪質な事案が、罰金とか1年以下の懲役に付されている現実を無視することはできないはずである。弁護人としては、客観的に、そうした他の児童福祉法違反、青少年保護条例違反事案との量刑の比較を望んでいたのに(具体的には控訴趣意書64頁等参照)、そうした判断は原判決では一切なされていない。そもそも、懲役2年、執行猶予3年という一審判決が出された背景には、被告人の行為は準強制猥褻であるとの教条を脱し切れない検察官の「求刑3年」という意見があったからであることは否定できないところである。

弁護人としては、再度量刑不当の主張をし、御庁において公正なる判断を望むものである。

以上

別紙I、II、III〈省略〉

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